雪降る日の窓を開ける

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2019年2月9日(土)雪

昨夜のニュースで流れていた通り、朝起きて雨戸を開けると雪が降っていた。

雨戸を開ける前までは眼前の景色が何通りも頭の中を巡るのだけれど、そのあれこれが窓開けた瞬間に答え合わせのように一つの世界線に集約するのは、飽きる事がなくてただただ面白い。それはきっとおみくじのようでくじ引きのガラガラを回すようでもあるのだけれど、窓の開け方を変えたところで天気は変わらないっていうあたり、人の手の加えようのない運命的な現実があるってことに気付かされる。

ゆっくり窓を開けたら願う天気になるなんてことはさらさらないし、そんなことでお天道様のご機嫌変えることはできない。それは当たり前のことなのに私たちはあの手この手で晴天を願うのもまた当たり前になっている。てるてる坊主なんて最たるもの。変えようのない天気に願いや祈りを充ててしまう辺り、娑婆に生きているのだという心地がしてくる。他力本願でおこがましいとすら思ってもなお願うことをやめない世界、これを娑婆と呼ばすに何と呼ぼうっていうね。

雨が降ったら傘を差すというのは条件反射として目の前の現実への対処の一つの例だ。その一方で願いや祈りの本質は、眼前の現実に対する対処と見せかけてその実、内面の感情のケアをメインとしているように思う。

願いが自分をモチベートする例で言えば「いい一日になりますように」なんてどうだろう。漠然とした願いも口にすると不思議なもので、それじゃあいい日にしようかという気になってくる。具体的にいい日にするために何をしようか計画が浮かべば、実行に移すし、そもそも「いい日にしよう」と思ってるから「いい日になる」ことも多い。暗示的なスタートでも気持ちの行く末が切り拓いたものが結果になることもあるだろう。

そんな願いや祈りに満ちた世界もひょっとしたら、言葉通りの願いや祈りは少なくて現実のいなし方だったのかなとなんてことを思うと色々と合点が行くことも多い。こちら側が現実を受け入れるために体よく祈りや願いを使っているのだとすれば、それはなかなか大した生存戦略じゃないか。

現実を変える程の大物ではなくても気の持ちようは庶民でも変えられるし、それでもプランBとして(捉え方で)現実は変わる。願いや祈りによる「持って行き方」が迷いをなくし、最大限に実力を発揮させることできるならば、その効能はノーベル賞以上に世界を前進させる。(というか前進させるものの根源そのものか。)

 

初石駅

 

雪の降った日に野暮用で柏駅に出かける。
積もるという程に積もってはいないけれども、週末三連休の始まりとして、歓迎する人と歓迎しない人はどちらが多かっただろう?
雪が降るのは子どもの頃から変わらずに好きだから、子どもたちと今日はどのくらい雪が降るだろうかという話を楽しむ。

「今日はどのくらい雪が降るかな?」
「いっぱい」
「いっぱいってどのくらいかな?」
「一万粒くらい」
「そっか、粒かー」と子どもの発想の自由さに笑みがこぼれる。子育てはこんな瞬間がたまにあるから飽きることがない。

 

アーバンでパークなライン

 

一万粒は雪も舞っただろうし、おなじくらいの願いもまたあったことだろう。叶わぬ願いでも願ったっていう現実は、何もしなかった世界や何かを呪った世界よりもいくらか見える光景をマシにするだろうから私も一つ願いを込めて。

「今日もいい日になりますように」

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