梅雨空と短冊とリトルベイビー

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梅雨空を憂う

ぐずついた天気が長引く梅雨時、自ずと屋内で過ごす時間が長くなります。鬱蒼とした空模様に心模様までを同じ色に染めてしまうのは、何とも抗いがたいものです。好き嫌いで生きる娑婆の自由を謳歌しているとも言えますけれども、童謡「ろばを売りに行く親子」よろしく気付かぬうちに浮世のよしなしごとを批評家の視座に置き、憂いの発露ばかりで自分自身の自由の価値を貶めていたなんてこともさもありなん、憂いを吐き続けることは今時の余暇の過ごし方の一つになってしまいました。

人の意見に流されずに自分の意見を持とうという趣旨で語られることの多いろばの童謡ですけれども、昨今では反面「あれこれ批評家気分でしゃしゃり出てくれるよな!」という外野側の心得へとしての教訓があるようにも感じます。疫病に民間のスポーツイベントに地元サッカーチームの戦績に一言物申したいのは黒タイツを履いた半裸のおっさんだけではないのですけれども雨粒の一つ一つを丁寧に憂うようにこれらを憂いて一日を終えてしまうのは自由の謳歌にしてはさすがに勿体ないでしょう。今日はそのあたり、七夕の時期と絡めてのお話を一つ。

短冊に願う

先週は7月7日(水)の七夕がありましたから、子どもたちが思い思いに短冊へ願いを書いていました。

短冊への願い

秀作だったのは「しあわせな毎日になりますように」
時として本質を射貫いてしまう子どもらしいその言葉は、確かな光を射つ矢を放ち私には少し眩しさを感じるものでした。

心持ちとして神社でお賽銭を入れるとき以外に「しあわせな毎日」を果たしてどれだけ願っているかを問われたようでもあり、変わりに願いではないものを結構な大きさになるまで内心で飼っていることに気付かされてバツの悪い気分がしました。

願いすらままならないのならば、その先の行動が伴わないのは言わずもがな。気付きがあったことを良しとして少しばかり願い、そして求めようと思い立ちます。新約聖書感あるあるですけど昔の人もきっと「求めよ」と思い至った理由があったのだろうと妙に納得したりします。

日常の中、子どもに気付かされることは多々あり、心象の気付きもまた子育て業の楽しみの一つですね。わが家のリトルベイビーたちも時にこうして先々を照らす光を導くガイドライトとなってくれることがあるのですから。

願いを形に。やってきたリトルベイビー

些末な事に「憂いを持たないこと」とその代わりに「幸せを願うこと」が自明になりましたから、ここ最近は願いで身の回りを一杯にするために好きなもので周りを埋めてみる動きをしています。

求めたものの一つは、お気に入りの花屋さんgreenstyleで小さな鉢植えがありました。通称メルヘンの木とも呼ばれる小さな葉と小さな木が特徴的なニュージーランド原産の植物です。オセアニアの植物が得意というお店のカラーが良く出ている植物で正式名称はソフォラリトルベイビー。お値段は550円でした。

我が家のリトルベイビーたちに敬意を表してというのは後付けの理由ですけどそいううことにしておいたほうが盛れるので盛っておきます。はい。

ソフォラリトルベイビーは、小さな鉢に収まる小植物でありながら盆栽のようなわびさびの世界を感じさせてくれます。これは、小さな葉が連続で並ぶ様や木の幹が縦横無尽に伸びていく様に「木」を感じる余地があるからだと感じます。小さいながらもいっぱしの木を感じさせるソフォラリトルべイビーを眺めると一枚一枚の葉や幹に健やかな成長への願いが重なります。

梅雨空を憂うなら迎えた樹々の成長を願い、晴れの日を願うほうがいくらかは「しあわせな毎日」に近づくでしょうか。
日々を積み重ねながらこの木が大きく育つ日を楽しみに待ちたいところです。

「雨空に 晴れを願って 種をまく。」
流山すみずみ

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