約100年前の1916年「イントレランス」というモノクロのサイレント映画が封切られました。舞台の異なる4つの時代のストーリーが、入れ替わり立ち替わりながらクライマックスへと向かっていくというもので、話の一舞台となるバビロンを再現した豪華絢爛な超巨大なセットは、いまだ映画史上最大だったとも評されています。
話の構成、カットやセットは好きな人にはたまらならい魅力を秘めた作品となっているにもかかわらず、この映画の名前がさほど知られていないのは、古すぎるという点はもちろん、興行的に大コケだったから。ズッコケた要因は、目まぐるしく舞台が変わる中、それぞれの舞台の話が難解過ぎたからだとも言われています。
そんな古い映画の話を思い出したのは、下記の関連記事を読んで最近の流山おおたかの森近辺も「イントレランス」を抱えつつあるのかもしれないと思ったから。
母になるなら流山市はやめろ父になるなら流山市はやめろ
http://anond.hatelabo.jp/20170528232611
「母になるなら」の流山市 子ども急増で混乱
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170603-00010001-bfj-soci
今日は、少し気になって上記のブログ「母になるなら流山市はやめろ父になるなら流山市はやめろ」の記事を書いた方にお声がけして「BARNS&FOREST148」でお茶して話してきた事を取り上げてみたいと思います。
さて映画のタイトルにもなった「イントレランス」英語では、intoleranceと綴り、意味は「不寛容」を意味します。今回お会いした話を読んだ後、どんな「不寛容」が浮かぶか少し考えて頂けたらと思います。
今回の「保育園落ちた。日本死ね」テンプレートに則り、初期衝動に任せて書き殴ったような「流山市やめろ」を書き綴った方(以下やめろの人)の主張は、私のインタビューよりもご本人のブログやBuzzfeedの方がもれなく詳しく書いてあるのでそちらもご参照ください。
※下記インタビューは一言一句が正しいものではないことにつきご了承ください。
私が止めろの人にお聞きしたのは「ブログを書くに至った『怒り』の理由について」
やめろの人曰く、「この怒りは、不動産購入時に売主の業者には学区の事を十分に確認した上で購入したにもかかわらず、流山市は人口動計の上振れに責任を取る事も、また申し訳ないの一言すら謝罪をする事すらなく、選択肢のない学区変更案を我々に突きつけていることと、民間の不動産業者が、いくら学区をデリケートに扱っても『想定外の人口増』を理由にいとも簡単に学区変更を持ち出す見込みの甘さ、対応のぬるさに対してです。」「それ故に市には騙された気分しか感じないし、市内に不動産を買ったことすら失敗だったと思わされている。取れうる手段は何でも取るつもりで動いている」とのことでした。
やめろの人が言われる「取れうる手段」、具体的にお聞きしたところでは、市長、各市議会員へのメールから、住民主導で学区の変更を実現した一例から自治会への働きかけ、さらには判例を元にした拡大解釈で市の人口増のリスクを「不利益事実の不告知」にあてはめようとする事までとにかく取れうる策は取る考えのようでした。
そこまで、学区の変更が受け入れられないのは、何か?が気になり、続けて聞きます。
私「そこまで動くのは、小学校の新旧の差(小山小は建て替えて新しい、八木北は老朽化が目立つ)が理由ではないのでしょうか」
やめろの人「正直に言って、学校の新旧は問題ではないんです。新旧の学校で運動会の差(小山小のグランドは狭い、八木北小は比較的広い)話もネットで見ているし一長一短だとも思っている。
学区が変わることによって、想定した通学時間、通学距離が伸びることのほうが現実的には、大きい問題です。想定した通学時間以上に大幅に時間がかかることは、その後の習い事や塾の時間にまで影響を受けることになります。
また通学距離が増えることは、それだけ交通事故など通学上のリスクが増えることにもなる。都市軸道路で区切りを付けることについて都市軸道路を渡って通学するリスクを少なくするためと市は言うが、都市軸道路くらい広い中央分離帯のある道路なら逆に信号のある横断歩道を使いますから、細道等を渡って行くよりも遥かに安全は担保されているんではないかと感じています。」
その後、市の開発に対する考え方を教えて頂いたり、家族構成の事や、私の娘の通う学区の話、想定される通学コースの話や50戸以上の大規模住宅の開発事業のことや、人口動計、次回説明会は7月に行われること等をお聞きすることができました。
最後には、私から伝えておきたいことを伝えて喫茶の時間はお開きとなりました。
「親が躍起になって学区変更を受け入れず、当初の学区通りに通学できるよう動き続けたとしてその結果が叶わずに子が意としない学校に通うこととなったとき、お子さんは、親が意としなかった小学校で素直にその小学校生活を楽しむことができるでしょうか?『怒り』を持たれることについては、もっともな理由もあることも思います。けれども、挙げた手を下すときのこと、折り合いの付け方というものを考えられているのかも私は気になるのです。」
「この街には新興住民も多く、繋がりの薄い中、様々な不安や不満を持った方がいます。あなたがメールを送り返信のあったという市議会議員の中には、こうした新興住民の不安と不満を支持基盤としている方もいらっしゃいますのでご注意を。生活に満足している市民は、議員へ何かの働きかけようなんて思わないでしょうから。」
とまあこんな感じのお話の場となりました。
お会いした印象は、ブログの語気とは全く異なり、理性的で物事を良く検索されている方で、機会があれば、またお話をしたいと思えるくらい市の事もまた家族の事も考えられている印象を持ちました。近所の隣人と話すような空気の中、コーヒー飲みながら、時折お互い笑いながら話すとやはり、イメージで思っていたものから、一歩突っ込んだ現実が見えてきます。
当社、やめろの人の主張は、強烈な市に対する拒絶とも言える「不寛容の表明」に見えました。ただこの言葉の奥には、同じくらい自分の主張を「寛容」して欲しいという願いが含まれていることをお会いして知りました。置かれた立場が同じなら、私もするかもしれない訴えがあると。
また市の主張には、テヘペロで済ませられない「想定外の人口増」への対応について、今後はやはり考えなければならないのではないかと思います。人を呼び込もうとするシティーセールスをしながら、リスクテイクは市民に丸投げかと批判されるのでは、イメージで売れた過去の10年の成功例にすがったままだと思われかねません。一方的で選択肢の無い学区変更案を飲ませるだけではない、頭を使って市民とともに汗をかく「寛容のメッセージ」を発信する必要があるように思います。
行政の仕事におけるプライオリティは「予測」ではなく「現実」への対応であることは百も承知しています。今の世の中は、何でもかんでも自分の責任としたくない人がいるのですから、彼らにリスクテイクを自覚させて、現実を諦めさせるのではなく自発的に受け入れるようなメッセージを発信することはできるのではないでしょうか。
例えば、「予測しきれない人口増を抱えていること、その上で改善策を市民とともに作り挙げる土壌としていくこと」がアピールできれば良いと思います。学区審議会は十分に仕事をしているわけですし、予測値だって市のホームページを見れば開示もされているんですから、物事の運び方に「市民が知りたいこと」の周知を市のWEBのトップページで取り扱う等、十分に盛り込めばいいと思います。学区なんて食いつきのいい話題なんですから市から積極的にメッセージをしないとどっかの議員に脇の甘さを指摘される事になりますよ。
また私の雑な考えを正直に言えば、相手の言葉使いの悪さを正しながら、学区変更という予想しきれれない事態なんて自分の見込みの甘さに起因するものだから殊更に問題にすること事態間違いだと言う考えも浮かびました。ただそこで言う「受け入れろ」は「諦めろ」に等しい言葉だと思いますし、これは満足している側にいる私のやめろの人に対する「不寛容」だと思いました。
これには本当にしばらく考えることとなりました。これだけ人の事をあれこれ好き放題言いながら、ずいぶんと偉そうこと言ってるなと自省もしました。立場の違う人を否定するのでもなく無視するでもなく、別の人の話で終わらせない立ち位置とは何だろうかという事です。
それでも話を綴ってみた中、148CAFEの入口にヒントを見つけて救われた気分になったことだけは伝えておきたいと思います。多分、持っておきたいという心持ちはそういうことなんでしょう。
「Come In We Are OPEN」
流山すみずみ
https://nagareyama-sumizumi.com