子の通知表を見て一喜一憂した一歩先の話

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昨日12月22日は市内小中学校では終業式を迎え、冬休みに入りました。
校長先生の短いとは言えない話を体育館で聞き、そわそわと担任の先生から通知表を受け取り、冬休みに想いを馳せ、クリスマスとお年玉の皮算用をする。通過儀礼のようなこの一連の流れは、最新の21世紀になっても変わらず、様式美のごとく今なお続いていることを嬉しく思います。

私がかつてそうであったように、子どもたちにとっても一年でも指折りに楽しい時期を迎える事を端的に示していますからね。

この終業式の一括りの中では、親世代に関心が高いのは、通知表の成績でしょうか。その成績に一喜一憂する子どもと同じくらい親が子の成績を気にしてしまうのは、致し方ない性のようなものでしょう。

親世代の我々はよき歳を取り一人の大人となりました。そしてまた通知表のようなわかりやすい評価をされるこもあまりなくなりました。叱咤は多くとも称賛は稀となり、世間の大海原を渡るには、俄然自己評価のお手製コンパスに委ねられてきています。

それを思えば通知状がもらえる子の評価とはいかにわかりやすいものかと、数字と○の数とテストの点で評価が示された通知表を目にした時、わかりやすさの権化のようなものの存在があることを思わされます。
通知表を元に成績が良ければ褒め、悪ければ奮起を促す。悪かった所があれば課題にして寄り添いできるようにする。この繰り返しをしていくことが一見親として取るべき正しい態度だと思っていたのですけれども、思う所があり、一考してみました。

その思う所とは、私たち大人がどんな形であれ世間を渡る時指針として持っているお手製の自己評価のコンパスは、はてさて何を元に作られていたっけな?っていうところです。
思い出を張り巡らしてみると、私のコンパスは実のところ、親や友人の言葉、経験や自分がやりたいと思ったことなど、わかりにくいものばかりで作られていて、わかりやすいはずの成績やテストや数字などでは作られてはいないように感じます。

成績を見る上で通知表は非常に役立ちますけれども、それだけでは決して子のコンパスの方角までは見切れていないように思います。歩いたのか歩かされたたのかもまた分からないですから、意志の方角を見るのであれば、やはり子の顔を見たほうが火を見るよりも明らかでしょう。そこでさらに一歩先に踏むこめるならば、そこに親としてしかできないことがあると思います。

これからは一興ですけれども、親から子をみた意志の方角の通知表を作ってあげれたら面白いだろうなと思っています。楽しんだこと、笑ったこと、頑張りたかったこと、子の意志が向いた方角を言葉や文字にしてそれとなく気付きをあげることができれば、子は自らが思うピカピカなコンパスを作り上げることでしょう。

子の成績の批評家で終わらずに意志の方角の導き手であれたらという自戒と願いを込めて、子どもにお手製の通知表を作ってみるつもりでいます。それはきっと親にしかできない子との関わりのスペシャルなものではないでしょうか。

きっとこんなことを思いつくのも私のお手製のコンパスの指す方角のせいでしょう。
山があっても壁があっても指す方向は変わらず、多分半分壊れているのでしょうけれども付き合いも長いので今日も懲りずにそちらへ向かおうと思います。

その方角は「面白い方」
流山すみずみ
https://nagareyama-sumizumi.com

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