冬が好きです。
それはもう寒ければ寒い程に。
スマホをいじる手がかじかみ思うように動かないこともまたこの冬にしかないものだとすると、その寒さもまた季節を感じる風情のようで、五感で感じるこの季節のありがたみが体に入り込んできます。
冬寒いのは当たり前のことと受け入れてしまった時、その次の気持ちは何が湧いてくるか。そんなことを考えてみたら中々に面白かったです。当たり前のものに当たり前の突っ込みを入れた後の漂流先のこと、今日は「さみーっ!」のその先に出てくる言葉を見つけにこんぶくろ池へと散策をしてきた話です。
この冬、柏の葉キャンパス地域にあるこんぶくろ池へ早朝何度か散策に行ってきました。
小寒から大寒へと入る冬真っ只中、冬枯れの森は「これでもかー」というくらいに冬を感じさせてくれます。
触覚で言えば頬に刺す冷気はもちろんのこと、踏み入れる足先が感じるふかふか落ち葉とパリパリ霜柱の絨毯の織り成すリズムにも。
月の沈んでいく音すら聞こえそうな森の中、足先の発する森のリズムに添えて、私が生きていることをあかしする鼓動と呼吸の音が合いの手を入れてくれます。
出かけたのは黒一色の水墨画の世界の夜明け前から朝を迎える頃、空には少しずつ蒼が刺してきます。
眼前に少しずつ増えていく色に朝日はまだ見えぬとも、今日にまた色が付く時の訪れが近いことを感じます。
今日が色付き始めたころ、こんぶくろ池は冬のしるしに「湧水池も冷えれば水面が氷ること」を示してくれていました。
この冬の結晶、本当によく冷えた朝にだけ見られるようで、三度は試した中では一度だけこの目にすることができました。
散策の最中、心の中にはもちろん「さみーっ」という当たり前の感情が沸いてきます。冷えているのだから寒いと思うのはごく当たり前のことで、心頭滅却するような悟りは当面は開けそうにも、また開く気にもなれませんでした。
ここで小島よしおばりにキリッと「さみーっ!」「でもそんなの関係ねー」とでも言え切れたらさぞ物事はシンプルになりそうですし、花の慶次ばりに「だがそれがいい」(キリッ)と言えたならばかっこいいのですけれども私の中から「さみーっ」の後に続けて出た言葉は「うん、本当寒い」でした。偉人に比べて受け入れるのが精一杯という私の小物感がよく出てますね。
ただ寒いもんは寒いんですけれどそのことで機嫌を悪くすることは何もないようには思えました。それは冬寒いことをこんぶくろ池を巡り、五感を持って知ることができたから。寒いなら寒いなりのご褒美もあり、当たり前の物事には当たり前の面だけでなく思いもかけない多面があるということにもなるでしょうか。
当たり前の事実にお約束のように当たり前に機嫌を悪くしているのは、条件反射のようなもので、本当に物事を知ったうちには入らないのかもしれません。寒いなら寒いなりのその条件反射の一歩先へ踏み込んでみると、気持ちの在り様は随分と楽になるように思います。
最後にヒントを一つ、アランの「幸福論」より一言お借りするとともに先人の叡智による挨拶で今日を〆ます。
「この病気が人を悲しみに陥れるのを知っているのだから、君は自分が悲しんでいることに驚いてはならない。そのことで機嫌を悪くすることは何もないのだ。」
「ご機嫌うるわしゅう」
流山すみずみ
https://nagareyama-sumizumi.com