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手洗いうがい、夏越の祓い。おすわさまの茅の輪と夏越の祓

I ♡NY
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日長きこと至る(きわまる)夏至を迎えました。
今月末で一年も折り返しとなり、「まだ半年」なのか「もう半年」なのかの口ぶりに人それぞれの心象が見え隠れするお馴染みの季節がやってきたことになります。上半期はCOVID-19により社会が激変したこともあり私的には、例年よりも深淵を覗くだとか矢面に立つ機会も多かったように感じられます。

幸か不幸か脅威にさらされ、深淵(abyss)や際(edge)に立たされことで結果的に社会は変容しました。勝ったというには早急で軽薄ですけれど、ただ決して歩みを止めることのない人類が進歩と調和を続けていくためには、脅威とも(できれば優位に)付き合っていかなければならないことがよくわかったのがこの上半期だったように感じられます。

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手洗いうがい、夏越の祓い。

この半年の清潔に努めにより手先はハンドソープとアルコールで随分とキレイになりましたけれどもただそれだけでは落とせない穢れというものがあります。それらは恐らくは心象によるもの。精神的な疲れや恐怖と言ってもよいかもしれません。

災厄の中身がウイルスによるものだとか科学的に証明されつつある現代にあっても対処や退治がしづらい内心のまものには、神さま仏さまのお力を借りるのは今なお有効な手立てとなることでしょう。

何しろ今の時期は、夏越の祓い(なごしのはらい)の頃で半年分の厄を祓いに行くのにうってつけです。
今日は一つ手洗いうがいに夏越の祓いを合言葉に文字通り心身を健康に保つこために夏越の祓へ行ってきたお話をすることと致しましょう。

夏至の頃、おすわさま

おすわさまの茅の輪と夏越の祓

おすわさまには現在、茅の輪(ちのわ)が設置されています。
茅の輪くぐりは、この茅でできた輪を作法に則って3周し(合計4回)くぐることで身の汚れ全てを払い去り無病息災招福を祈るという平安時代から続くならわしです。時期としては6月末の夏越の祓と12月末の大祓の年に2回行われています。年末年始の初詣と七五三の時期くらいにしか神社に来ない方には中々もの珍しい印象を受けることでしょうし、この神聖な輪っかをくぐろうものならとどこかに連れていってくれそうなワープゲート感があります。私的には人気の少ない早朝に茅の輪くぐりに行くのが楽しみになっています。

おすわさまの茅の輪

 

茅の輪の正しいくぐり方は茅の輪の脇にくぐり方を伝える掲示板が立てられていますので茅の輪ビギナーの方も問題ありません。街ゆくおじさんのわたしも4年前に訪れたときには図をよく見てくぐり方をならったものです。ようやく今は、スッとくるくるくぐれるようになり茅の輪玄人の雰囲気を醸せるようになったことでしょう。できることなら茅の輪ワープを成功させて4年前の私にこの雄姿を見せてあげたいものです。

茅の輪のくぐり方

 

(4年前の参考記事 2016.4.12)

The warp gate おすわさまの「茅の輪」と夏越の祓
夏越の祓間もなく夏至を迎えようとする水無月の真っ只中、朝陽の上る時間は早くなり、早起きの私には、それだけであれこれと活動時間が増えて嬉しい季節となりました。梅雨に隠れがちな夏至までの日の長さが伸びていくその様は、7月や8月に感じる夏の愁い

茅の輪をくぐって感じる事

彼の地へと足を運び、参道の石畳を照らす夏至の日が高く昇りゆく様子を眺めながら早朝のおすわさまの中で茅の輪くぐりをすると、内心のまものを祓ったような清々しさに包まれキレイな体になったような気がしてきます。
それは茅の輪そのものの儀式的なご利益というよりは場によるものといったらよいでしょうか、諏訪の杜の静寂さは心地よくまた木々が盛り夏の光が射すさまは、自然の美しさに満ちていて森林浴をしたようなリフレッシュした気分を味わうこともできます。

私的には以前よりも神社通いが日常的になったこともあってか、手を合わせてお祈りするときも都合のよいお願いをするばかりではなくなってきました。
誓いを立ててまた振り返りをする場として昔の人たちがそうであっただろう「気持ちを整理する場所」としての付き合い方に変わってきていて、雰囲気のいいじいちゃんばあちゃんの家の縁側に話をしにいくような雰囲気もあります。

参道の石畳に射す陽光

「茅の輪へと石踏む間にも日は昇り」

 

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茅の輪へと石踏む間にも日は昇り #茅の輪くぐり #流山 #a7iii #a036

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「まだ」なのか「もう」なのかをはじめ、あれこれへと気が巡る時、それぞれの主観をもって物事の見定めなければならないことが多々増えています。しかしながら茅の輪をくぐって「茅の輪へと石踏む間にも日は昇り」の句を詠めたところで、なるほど全てに気持ちを表明することないものの観方、成り行きを受け入れる客観というものがあることに改めて気づかされました。「ただ」時が過ぎゆくことに由無しごとをのたまうのではないありのままの現実を受け入れる時、言葉の一句一句の価値はさらに増し、そして静寂の価値もまた増すことがもあるような気になると言ったら大げさでしょうか、厄が落ちるというのにはきっとそういう気持ちの変化も含まれるのかもしれませんね。

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